昭和56年11月1日 月例祭におけるご教話 【入力者:岡村和一郎】
( ? )をころっと忘れてしもうておりましたが、ただ今ご祈念中に、それまたありありとこう思い出さして頂いたんですけれども、こういう夢でした。誰か分かりませんけれども、まあ本部辺りの偉い先生のようです。ここへ見えておられるのです。それで私は、あの、うーん、一緒にお食事をしながらのような感じで、うん、先生が、「私はもうらっきょうというものは、ふるふる好かん」と言いなさるところ。あのらんきょのこのへんは、らんきょと言いますね。らっきょう、そりゃらっきょうというのが本当でしょう。漬物( ? )。
私は大根( ? )ですが、漬物の中でも私は、もう一番素晴らしい漬物は、日本ではらっきょうだと思うです、と私はいつも言いながら、皆に言うんですけどもね。やっぱ嫌いな物は嫌い(なんだけど?)。まあそんなお夢でした。
そして、私が、この小さい小指の先のぐらいの一番小さい、(まあ?)花らっきょうと言うんでしょうかね、一番小さいところを挟んで、「先生、一つ召し上がってごらんなさい。おいしいですから」というて、無理にこうやってあげておるところでした。そしたら、そのそれを、こう(ごっくごっく?)入れて、(ああ?)、おいしいですねえ。「私食べるぐらいでした」ち言いよんなさる。
それで、私がだんだん大きいのをね、今度は親指ぐらいの大きならっきょうですね、( ? )、これは大きいだから果物のようにしゃぶしゃぶしておいしいですねち。そして、私は心の中で思いよるとですその、この人にだんだん(いっちょ?)ニンニクば食べさせる(ならにゃ?)いかんなあ、と思うておるお夢でした。大体見当がつくでしょう、どういうことなのか。ね。
昨日、本部のほうで出ておる『金光青年』という立派な本が出ております。それで、この頃からあちらの手術をなさっておられる川辺という先生が、えー(ふたっと?)、ある先生と2人で、ここへ記事を取りに来ました、一晩泊まりで。
その記事が今度の、青年、えー何月号でしょうか、今月、11月号やろうか。(10月だからね?)。昨日参りました。それで、えーまああの、読んでもらいましたが、まあ随分長い記事です。それを(この?)4ヵ月4回に渡って連載するという、聞かせてもらって、ええまあ、ほんとに文章の上手な人が書くと、こんなにまあ合楽が素晴らしいことになってくるのかなあと、まあ素晴らしい、まあ称え言葉がここに出ております中にです、聞いてしまってから称え言葉というて、別に称えておる、あの通りなんだと私は思いました。ね。
えー、中に、合楽教会という所は、よしにつけあしにつけ、非常に評判の高い所であると書いちゃる。ね。よく言う者はよう言うけれども、悪口を言う者の、( ? )棒にも箸にもかからんように、その悪口を言うという意味でしょう。よしにつけあしにつけ評判の高い教会だが、2日間お教会におらせて頂いて驚いたことは、ね、今の金光教、教団の中に、こういう生き生きとした助かりを見る教会がまたとあるだろうかと思うてうれしゅうなった、と書いております。ね。
( ? )の教団人としてです、生き生きとしたお教会、生き生きと助かっていって繁盛しておるのを見たら、自分のことのようにやっぱり嬉しい(ぐらいて?)。ね。そして、なら、合楽理念とは、今度の(度?)は、あー、4人の私どもの息子達が、士農工商の謂れから、その若い、そこの子供である若先生達が、親をどう頂いておられるか、合楽理念をどうとらえておるかということを、銘々(である?)、のところで話している。それを、ぁぁぉー、竹内先生と佐田先生が一緒に中に入って、一問一答風にして、えー、( ? )大変素晴らしいということ、そしておもしろい。はあ。で、皆さんもぜひ、今度は、あー、たくさん送ってくるそうですから、あの、買い求められて、一つ読んで下さるじゃなくて、合楽理念を勉強して、はああ、こういう頂き方、こういう説明の仕方があるんだなということを、改めて皆さんも勉強して頂きたいと思います。ね。
それこそ、よしにつけあしにつけ、ならこの頃も、(『玄潮』?)という、これは九州のお道の雑誌ですけれども、ここの記事を取りに来ました。もう期せずして今度は、先立ってからは、『あいよかけよ』という、これはもう全国で一番たくさんの部数を持つご本なん、信徒会発行の物です。それが、あー、えー、合楽教会を取り上げる、ここの若い先生方が、あー、合楽教会、いわゆる、まあ合楽(理念?)を芯にしたお話を掲載しております。
やっぱしこれは神様がこういう、一緒にですね、合楽を宣伝しようと(PRして?)なさる。( その接点?)ということは、(まあちょっと?)言葉が悪いですけれども、ほんとに教団人自体がまず助からなければならない、そしてその教団人の助かりが、世界にも、教祖の神様は、「世界を包みまわす」とも仰せられるほどしの働きにもなっていかなければならん働きが始まったなと思わずにはおられません。ね。
今日の、なら『金光青年』の記事の中から、また『あいよかけよ』の合楽理念の記事から、または(『玄潮』?)が今度また次に、合楽教会を取り上げるであろう、この頃からたくさんの写真やら記事やらをとって帰られました。その時に、その手術になる人が私に、それこそ、大変失礼ですけども、失礼ですけどもを連発しながら、まあ一般で悪口を言われておるところを、私にこう尋ねるわけなんです。
とにかく、「合楽教会は評判が悪いですねえ」とこう(いうわけ?)。実際に来てみると、反対にびっくりするような感じで、有り難く受けますけれども、一般に聞くと評判が悪い。それで私は申しました。「それはね、誤解なんです。分かっていないとです。ね。ですから、その誤解が解けて、そして分かられたら、悪口を言う人達も信心が一段と進むでしょう、おかげが受けられるようになるでしょう」というふうに申しました。
誤解なんです。合楽のことを悪口を言う人達はです、ね、まあ、あー、えー、その、おー、枝に葉がつくようにして、よいことでも悪いことでもそうでしょうけれども、こう広がっていく。そんで合楽ちゅう(のは?)、「あ」の字でも言うと好かんち先生方がやっぱあるんです。ほんとにもう面からそんなふうな態度をとる先生方も信者さん方もあるんです。けれども、だんだん合楽がお道、いうならば本当なものであるというようなふうに分かってくる方達が、いうなら合楽に傾倒する人達が増えてきた。それを、まあ教団的に一遍にこう宣伝しようというような働きをね、ここ1、2ヵ月感じるんです。
今朝からも、今朝からのご理解は天地書附でした。ね。ちょうどあの教典の上に、一番初めのところにありますね、天地書附が。その天地書附ということがどういうもんなのか。ね。はじめの間は、教祖の神様が、2代金光様四神様に小さいお札のようなものをに、それを書き溜めさせられた。さっさと書いておけと。生神金光大神。
そして参って来る信者に、見よい所に張っておけと、まあいうふうに渡されたのが天地書附。だから、柱に張りつけてある所もありゃ、ね、えー、かまどの女の方が
(※テープ一旦切れる)
だんだん分かってきて、もう金光教の芯は、もうこれなんだと。まあいうならお題目だ。お題目以上のお題目なんだ。というふうに、まあ分からして頂いて、まあ今朝からのご理解を頂いてです、ね、これは、この和賀心という心は信心があってもなくても、人間の真実の幸せ、幸福になるためには、こういう心の状態になることを願っての生活からしか、人間の本当の幸福は頂けない。ね。
そして、今日私は、あー、例えば、あー、あらゆる宗教がです、ね、教えの芯にこの天地書附をもってくるようなことにならなければ、もう、過去の、いうならば宗教、ね、例えば仏教とかキリスト教という、何千年続いた大きながあるけれども、それでは助からない。
慈悲を説く、愛の心を説いても、愛の心では助からん、慈悲では助からん。それを数千年間の間に実証してきた。いよいよ、慈悲の心を求めようとすれば求めようとするほど、愛の心をいよいよ、愛の心を、ということになってくればくるほど助からない。やっぱり一生が茨の道であり、ね、やはり因縁、輪廻の中から逃れることはでけない、仕方がない。もうこの世では仕方がないから、あの世で極楽(行き?)の、というそういうあの世の極楽行きの、いうならば信心のように、まあなり果てておるというわけです。
私は今日、研修ん時に先生方に、まあ話しましたことでしたけれども、ある先生が、ね、えー、「親先生の信心を頂く」という、この発表の中にそういう言葉を使ってました。よく皆が使う、親先生の信心を頂くということ。
それで私は、なら親先生、親先生の信心を頂くということは、どういうことなのか。皆さんどう思われます?ね、親先生の信心を頂くということは、親先生を、いうならば信ずるということであり、言うておられることを信じる、そしてそれを頂くということ。ね。傾倒するというだけではなくて、それを自分の信心(に?)頂くということ。親先生を頂くということは、そういうことだと思う。
そこで、なら今朝あたりかたのご理解を何回も皆さんが頂いておられるのを、こっから聞かせて頂いて、まあ大変大きなご理解だなあ、今日のご理解は、とこう思った。世界中の総、いうなら氏子にこの和賀心時代を創っていこうという働き。しかもそりゃ信心があろうがなかろうが、ギリギリ究極のところは、例えば、人間の知恵やら力やら、科学の力で様々なことが容易になった、それこそ月の世界にでも行けれるような時代がやってきた。けれども、それで人間が幸福になるということではなかった。ね。
これは、人間が幸福になることのためには心だ、というところまでは分かった。ね。まあ、それを慈悲心と言うてもいいでしょう、愛の心と言うてもいいでしょう。ところがね、それでは、んなら幸福にはつながらないのだと。「おかげは和賀心にある」と仰せられる、いわゆる和らぎ賀ぶ心、いうなら教祖が言われる和賀心、ということを目指さなければ、人間の真の助かりとか幸福とかというものはあり得ない。ね。
例えば、慈悲の心でも愛の心ででも、んなら、因縁を取ってしまうことはできないでしょう。ね。罪を、いうならば、あー、まっ、キリスト教では原罪とおうような罪を、は、もう到底、私どもはそれをかろうていく、その罪を持っておる、かろうていく、いうなら十字架を背負うていくと、こういう。ね。
だから、慈悲では助からん、愛では助からん。そんなら、そのもう一つ向こうに、なら天地書附
をですか、ね、(いわゆる?)あの和賀心にならなければ、和賀心になることを目指さなければ、(なって?)しまうということは、なかなか容易なことですけれども。人間は、いうなら本当の幸福は、天地書附によらなければ、和賀心という心を目指さなければ、人間の幸福はあり得ないんだということを、小学校の1年生にでも分かるように説明する学問が要るんだというふうに、今日は私はお話ししたんです。
和賀心学というものが要るんだ。慈悲じゃ助からん、愛では助からん。私は今日、先生方がその話をさして頂、改めてまたさしてもらいよったら、頂くのがね、あー、昔、タバコ入れ、(こつざし?)です。ね、今(はもう?)持って歩く人はありませんけど、こう腰にさす(こつざし?)ちいう、タバコ入れ。そんタバコ入れからね、タバコを煙管を出して、こうプカプカと(吸いよんなさる?)ところを頂いた。はああ、愛の心でも慈悲の心でも、ここにやれやれ、疲れた時に一服ぐらいな効果はあるなということでございます。私は、それを頂いて、改めてそれをそう強く思います。ね。
そして、それをんなら今度あんまりのみよると、ガンの元にもなりかねない。んなら一服、そん時だけは、ああ、(きつかあ、ああ?)、一服した、ああ、とまた次の仕事に励まれるというようなそういうあれもありますけれどもね、それは、んならひっとつも血にも肉にもならないでしょう、タバコ一服吸うただけで(も?)。それが過去の宗教のすべてなんです。と、まあいうようなことを私が申しますが、たしっかに親先生が言われることが本当だと、信ずることだということです。私は今日はそこを聞いてもらいたいと思うんです。
親先生大きなこつばっかり言わっしゃる、「和賀心デーを世界に」とかなんとか言っちから、まあ(あげん?)親先生が言いなさるけん、こっちも言いよるとっちいうごたるふうなこつじゃいかん。ね、そんためには私自身が和賀心を願い、求める、そして、はあこれが和賀心というものであろうかと感じるのは、おかげの実証によってそれを体験していく。
ははあ、和賀心ということには、人間関係やら経済の問題であろうがです、どういう難儀、難儀という難儀、これはもう仕方がないものではなくて、そこから助かっていけれる。和賀心の前には、(ギリギリ?)いうならば、因縁も罪も、ね、それこそ霜に煮え湯をかけたように、和賀心の前には消えていくほどしの内容を持っておるのが、天地書附であり和賀心なんです。ね。
だから、皆さん、ほんっとに慈悲では助からんのだ、愛の心がどんなに強かっても、いわば、本当の助かりにはつながらん。ね。慈悲があっちゃいけん、愛があってはいけんじゃない。または、それを、それに信奉、帰依しておる人がです、ね、それこそ、まあ一服の、ぐらいにはなるでしょう。ね。(いろんな?)たくさんの教えがございます。ね。
私は、教祖金光大神の信心というものがです、もうほんとに前代未聞、ねえ、開闢以来の、いうならば宗教である。宗教とは、読んで字のごとく、ね、ウ冠に「示」すと書いて、「教」えると書いてある。宇宙の宇、天地が示す、天地が教える。それを示し教えていくのが、本当の宗教だと。思索から生まれた宗教でもなからなければ、奇跡的な霊験的なところから生まれた宗教でもない。金光教の信心は、どこまでも、天地の親神様が金光大神を通して、今までかつてどういう人にでも、ね、ここの中を、いうなら打ち明けられた方はなかった。なら、天地書附がそこなんです。
「おかげが和賀心にある」、なら人間の幸福はそこにあるんだというふうに教えられた。釈迦もキリストもそういう教えは受けなかったわけです。ね。教祖金光大神が受けられたのです。だから、私どもはそれを信じ、そして、私どもの教えのすべて(が?)、合楽理念と申しますけれども、合楽理念のすべては、その和賀心にならせて頂くことのために、の手立て、容易に誰でもその気になれば頂けれる、手立てが説いてあるのが合楽理念である、ということ。ね。
誰かが言うたという、「宗教はアヘンなり」という。私は、過去の宗教はそう言われても仕方がないと思うですね。いわゆるタバコのようなもんです。はああ、きつい、一服すると。( ? )なんか(こう?)心が、こう、また生気が蘇ってくるような、かというて、んならそれをただ続けていきよると、いうなら中毒する。もうタバコが止められんごとなると、肺ガンの元になったちゅうような結果になる。ね。
だから、なるほど「宗教はアヘンなり」ということを、まあ、宗教の無神論者の方達が言う言葉でしょうけれどもです、あながちこれは嘘ではないと思う。ね。それはどういうことかというと、ね、人間の幸福がつながるおかげに、いうならお金のない人にはお金を、ね、不健康な人に健康を、様々な難儀な問題という、難儀という難儀が、教えに基づけば、それが解けていく。
私が罪深いやら、( ? )因縁が深いからと言うたり思うたりしておった人も、ね、ひとたび、「詫びれば許してやりたいのが親心」という、その親心に触れて信心の、まあ感動…、ともなってくるようなおかげを頂いた。ね。幸福につながらない。人間の、いうならば幸福。
昨日、一昨日、(え?)、でしたかね、伊藤さん所のお祭り( ? )。くの一会。昨日もお礼に出て、昨日お礼に出て見えまして、私はちょうど一年ぶりにあちらにまいりまして、お祭りを奉仕させて頂いたんですけれども、一年間の信心で、ようここまで育てられなさったなあ、という実感でした。
昨日もお礼に出て見えて、「もう今度のお祭りばかりは恐れ入りました」。あちらで、くの一会という会が毎月開かれておる。そのくの一会に通うてみる若い30歳余りの若い婦人方達が、あそこに10名余り。もう一切何もかにも、その準備の上にもう神饌物まで、くの一会の(方?)達が全部( ? )整えられてからの、あのお祭りでした、ということを聞いて、ほんとに、いうならば伊藤さんの信心に傾倒していく人達がだんだん増えておるということ。今月からは、あの、くの一会を2回にしたいと、こういう願いが、お願いされております。
去年は立派なお家ができました。もうほんっとにおかげと言わずにはおれない。私あちらご主人とか娘さんが、(まあ?)ご信心がないけれども、お母さんのあの信心には、例えば家を(ほんなら?)建てるでも、家の中央真ん中に、もうそれこそ教会のような立派な、ね、あの奉祭がしてございます。
ちょうどここと同じこと。ここがちょうど6畳の、ここん所に、いっぱいに神様のお祭りしてある。そちらが、あー、8畳でしょうか、洋間が、だからそこの、おーぇー、そろっ、あのー、皆調度品を片づけると、(そこが?)立派な、まあお広前になる。
もうなんか小さなお教会でお祭りを仕えとるような感じなんです、一番高い所。えー、ていうような、( ? )、例えば信心のない主人が、( ? )、うん、金光様のそげんと(奉って?)から、2階の( ? )ちゅうごたる所がありますよ、実際。うん。だからもう、主人に子供に気兼ねしながら拝んでおられる。もう( ? )中で拝みよるっちゅう人さへあるくらい。いや、本当です。ね。それを、(だから?)自分だけの信心で、あれだけのことを( ? )、反対を受けられないということは、やはり、参りゃ参るがとある、家内が参るようになったから、まあ、あー、ある意味合いでは、ご主人も感心しておられるのではないでしょうか。ね。
今日もお月次祭で皆一緒に参られて、えー後でそれを( ? )しましたけれども、あの、おー、室見橋の所から、あの、こう、こちらんとこ、高級住宅街があります。(あちら?)ですからね。地下、地下鉄の、おー、地下鉄と言うんですかね、電車ができました。を利用して(参って?)見える。今日もこちらへ参らして頂く時に、えー、ほんとに昨日お参りして、また今日お参りさして頂いておる、そういう信心が、誰にこう邪魔をされるわけでもなくできるということが有り難いなあと思うて、もうほんとにあの感動の涙がこぼれたと。そして、ちょっとこう見上げたら、その前の方にですね、それを忘れたんですけれども、なんか神様の大変な、あの、お喜びの言葉のようなものが前にあったとこういう。うん。
昨日も感動のお参りなら、今日もやはり感動の、まっ、お参りであったというわけですけれども、私はこれを昨日、研修ん時に、うーん、どういうところにね、あのー伊藤さんの所へ、あの、まあ、一年ぐらいでようもこんなに信心が育てられたもんだと。なら、その秘密はどこにあると思うかというて、皆に問うてみたんです。ね。
皆さんも伊藤さんを知っておられる( ? )の方達は、別にんならお話をさせてもね、そんな垢抜けしたお話ができなさるわけじゃないわけですよね、信心がまだ若いのだから、そのー、そんな高尚な言葉も使いきらんくらい。ね。けれどもね、頂いた教えがもうすぐさっそく、いうならば、行の上に現されるということ。ね。一番、(いうなら?)目覚しく信心が進展していったのは、ここのご造営、信徒会館のご造営の話があった時点から、あーいわゆるご造営にかけられる。もうとにかく小物、化粧品一つも、いうならば身につける物は、買い求めるということは致しませんという、(いうなら?)修行に入られた。
そして、そのいうなら御用ができることを、もうほんとに喜び、楽しみとして信心をさして頂かれる。そして、非常に美しいお方。まあ生まれつきなんです。生まれつきほんとに心の美しい人は、なかなか信心になりにくいですね。私だんは悪いことせんけんでちゅうごたる( ? )。けれども、( ? )美しいのにもかかわらず、なら特別何かがこうお願いせんならんということもないのに、どういうところからか信心がだんだん身に入ってきて、そのご造営ならご造営ん時のことに本気で取り組まれた。ねえ。
いうならば天の心を持ち合わせておられた。ねえ。合楽理念の芯は天地日月の心ということでしょうが、ね、和賀心、んなら和らぎ賀ぶ心はどこから、どういう信心をすればよいかというのは、もう、いよいよ天の心、地の心に徹することだ、ここは日月の心で、(いく?)というような生き方を身につけていくということによって、いつの間にか自ずと不平がなくなり、不足を思わんで済むようになり、ね、そして、それを自分でも拝みたいような、お礼が言えれる心、すなわち和賀心である。ね。
だからその、手立てがね、合楽、その、まあ合楽理念で説かれるわけですが、そういう意味で、なら伊藤さんは、天の心を、まあ持ち合わしておられたということになるでしょうが。それ(に?)、あのくの一会です。ね。これはもう、もう徹底して、土の心、地の心、成り行きをいよいよ大切に尊ぶという、この生き方にもう徹していかれるですから、もう天地の心がこう育ってくる。ね。ね。
天地日月の心が、いうならば、もう何と言うかね、無条件の中に、無条件でそれを行じていかれる。まあそういう、まあ伊藤さんを評しての、ね、若いここの先生方がいろいろ、おーまあ、まあ、とにかく親先生が言われることは冗談でも、もう本気で受けられる。例えば、あのくの一会の発会なんかそうだったんですよ。ね。
もう冗談でも、それがなら2、3人が10人になり、15人20人になるというように、そのくの一会、くの一会というて、くの一会に、もうとにかく、いうなら自分の心は有り難い有り難いというところに持っていけれる手立て、けいこがあるならば、一つけいこさせて頂きたいという人達が集まっておる。ね。
しかも、最近合楽で言われる、責任においての御用である。ね。その、いうならば御用が巧まずして、でき、まあ人が真似のできないような、ああ、感じで頂かれていくところに、信心がどんどん育っていくんだというふうに思います。
まあこれから先とても、なら海の物とも山の物ともそりゃ分かりませんけれども、ね、なら、一年の間にあれだけの信心が育ったということは、やはり、一つ皆さんが伊藤さんの信心を研究してみる必要があると。そして、いうならば真似でもさしてもらう心がけが必要だとこう思う。ね。
合楽がいよいよ世に問われる、いうならば時代が近づいてきておるように思う。そこ(に?)、合楽教会、なるほど立派で大きなお教会(が?)だんだん、うーん、もう、いうなら日勝り月勝りにおかげを受けておる。( ? )そこで信心のけいこをさせて頂いておる、今日の、えー『金光青年』の中にも書いてありますが、ただ驚きと、その喜びを若い美空の先生達が、親先生にも帰依しきって、もうそれこそ一生懸命に、その御用をしておるのに、もうほんとに、まあ驚きであったというようなことが書いてありましたが。ね。
そういう、いうならば、あり様を見てもらうだけではなくて、そういうあり方にならして頂けば、こういうおかげの世界も、いうなら合楽世界に住むことができるという実証者ができてこない限りです、どんなにその理念が素晴らしいことであってもです、その理念に基づけば、かくおかげが受けられるというね、手本を皆さんが示しておいでられなければなりません。ね。
おかげ、難儀ということだけに取り組むと、大変難しいですけれども、その難儀のおかげで信心がでけますという信心をね、頂く。そこには、楽しゅう、有り難く、頂けれる手立て、しかもそれには、一つのリズムのようなものが感じれれるになってくる。登れそうにもないところが登れれようなおかげが受けられる。
今朝、朝のご祈念の後に、えー今日参って見えとるでしょうか、あの戎浦さんとこの娘さんが、今日のご理解を頂きよったら、この耳から真っ黒いものがどんどん流れておるところを頂いたとこういう。ね。ですからね、ほんとにその、やっぱあの、うー、まあ伊藤さんの場合でも、大体美しい心を持っておられるとに、その教えが、なるほどなるほどと合点のいく教えがどんどん入っていくから、それをどんどん血肉になっていったということじゃないでしょうかね。うん。
まずはね、その聞く耳の掃除から先せなきゃいけない。ね。たくさん汚いもの嫌なものを聞き溜めとる。ほんとでもないことをほんとと思い込んでおる。そういうものを一遍出してしもうて、いうならそれを、心を、いうなら空にして、ね、白紙にして教えを頂く。そして、なら今日( ? )のように、えらい大きなことばかり言いなさると。「和賀心時代を世界に」とか、ね、これはいつでしたでしょうか。あー、合楽の信心がニンニクのような信心で、けれどもこれは、ニンニクというものは頂きつけたら止められないほどおいしいものなんだ、大体は。ね。匂いもあの匂いがなからんと、食欲が、をそそるようなものなんだけれども、もうニンニクの匂い聞いただけで嫌だって言うて、毛嫌いしとるばっかり。ニンニク(大蒜)という字を字で書くと、大きく、草冠に示すという字が2つ書いてあります。大きく示す、それも2つこう書いてある。大きく、いうなら世界中に和賀心時代をという意味なんでしょう。
ためにはね、もう誰んでも、一ついうならばニンニクを、ね、食べなろうてもらわにゃいけん。そして、ニンニクっちゃこんなにおいしいものであったということを分からせなければいけない。ためには、まず自分自身がどういうことの中にでも、ニンニクが入っとらなきゃ食べられんというくらいに傾倒しなければいけない。ね。ね。
だから、はじめからニンニクというと、皆嫌がりますから、ね、まあらっきょうぐらいから、こうやっていっちょあがってごらんなさいち、こーまか(細か)なやつ食べさせる。「はあ、ほんなことおいしかですの」ち(いって?)、また大っきかつば、「ほお、こりゃほんとおいしか」ち。ね。ああいう食べつけるとおいしんです。ね。そして最後には、ニンニクの入ったやつを黙って食べさするちゅうごたる(笑)。
そうして、ニンニ、もうなんにでもニンニクを入れなければ食べられない、というような思想をね、を世界中に広げていこう。それにはまず自分がそのニンニクを頂きならい食べ、ならわなければならないということでございます。ね。
先だってから、東京支部のご大祭を、もう大変私、体がちょうど大祭から18日の月次祭まではとにかくきつかった。えー。ところが、あくる日の朝のご祈念の時間から、こうおかげを頂いて、そのままこうやって元気におかげを頂いておる。ねえ。ね。(ほら?)もうほんとに東京に参りましても、なんか東京的なすっきりとしたね、素晴らしいお祭りでした。とくに目立ったのは若い青年層の方達でした。ご直会ん時に、青年の人達が皆で集まって、来月から、ね、その、おー、青年会を中心にして信心の研修会をやろうということになった。役員まで決まった。そしたら、あの、それこそ日本一と言われる、あのー、木村パン屋さんが銀座にある。その邸宅のほうが四ツ谷のほうにあるんだそうですが、「その会合に私のほうの部屋を使って下さい。来年からはこういうビルなんかを借らずに、あたしのほうの家で、あの、お祭りを仕えて下さい」というふうな申し出があったということでございます。そういう生き生きした働きが、東京の地にも起こっておる。ね。いうなら、東京の地にも、ニンニクの頂きなろうた人達が、ニンニクの匂いを東京中にプンプンさせるような、一つおかげを頂きたい。
え、宮崎は何日でしたかね?え?(11月8日です)あっ、( ? )8日ですね、まあ1週間後。宮崎の支部大祭、もう支部結成からもう5周年になる。それで、もう宮崎、高鍋、えー、または延岡ですかね、あたりの分会の先生方も一緒になって、もう、そりゃもうずいぶん前から、このことがもう練りに練っ、練り上げられて、記念祭記念祭、記念祭はどう仕え頂くかということで、一生懸命なさっておられます。今日も(何名の?)方から、その届けがありましたがです、ね、宮崎の地を、いわば合楽理念で包みまわす。いうならば、合楽の匂いをプンプンさせる、いうならば( ? )に一つに手立てでもあろうかと思います。ね。
皆さんはどうでしょうか。ね。少しニンニクの匂いがプンプン、側行ったら嫌われるくらいにですね、いうならば合楽という所は、よいこと悪いことにつけてなかなか評判が高い。あっん。それはあまりにもニンニクの匂いが強すぎるからではなかろうかって。ひとたび、そのニンニクを頂きなろうたら、ね、頂かずにはおられない、これが本当だということが分かる、分かってもらわなければならない。じゃそれが、いうなら世界津々浦々に、信心はあってもなかっても、人間の幸せというものは、知恵やら力やら、ね、科学の( ? )やらものやらで頂けるものではない。ねえ。
ある、あるものは心だということが分かる。今がそのところである。もう、結局心だ。ところが、心だからというて、まあ、ああなんて言うでしょうか。いうなら慈悲とか愛の心では助からないということ。それはタバコを呑むようなもんだ。そん時だけは一服やれやれするくらいなもんだけれどと、今日は私はお知らせ頂いたんですけれども、皆さんがそれを信じて下さらなければならない。
そこでね、できるできんは別として、人間の幸福の条件というものはです、ね、その和賀心を芯にして集まる幸福でなからなければならない。ね。そういうおかげを頂くということをです、ね、私は、一つの、まあ学問にでもしてです、小学校の1年生から、こりゃもう義務教育の中に、和賀心のことを説いて教えるような、あー、働きが運動がね、起こってくるようなおかげは頂けんもんだろうか。子供にでもニンニクのもの、ニンニクを食べさせれる、味を分からせる手立てはないものだろうかと、私は思います。ね。
ですから、それをね、私が、なら今日お話ししたような大きなお話ですけれども、確かにそうだと皆さんが信じて下さって、それを行の上に現して下さることが、親先生を頂くということになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。